ども親鶏(@pinoy_blood_15)です。

このシリーズも書き始めが2018年8月からなので、もう半年以上も時が経っていますが未だ完結していません。当時の思い出にふける時間がなかったというのが本音ですが、そろそろ続きでも。

最初から読む場合は、こちらから。

刺激ちゃんとの出会いで借金地獄に嵌り最後は両親に泣きつくという快挙に出た親鶏。恐らく800万円位はあったんじゃないかと。今考えると親父に文句こそ言われたけど、怒られるわけでもなく支払ってくれた。もしも自分の息子が同じようにしたら親父のように出来るのか?情けない話しだけど無理であろう。

借金もなくなり身が軽くなったのは良いが、2人とも働く意思(意欲)がなく何時も金欠状態。どうしてもお金が必要になったときは、ジャズ屋台で賭けビリヤード。最初のゲームでは何とかやり過ごし、終盤になると大きく賭け2人で組んで勝ちに持っていく。これだけで日に数万円も稼ぐことがあった。でも、そんな事は何時までもは続かない。気が付けば一緒にプレーしてくれる人はいなくなった。輩です。

21歳の誕生日

なんだかんだとニート寸前まで陥り気が付けば、もうすぐ21歳の誕生日。そんな折に親父から自分の店(居酒屋)でもやらんか?と相談を受けた。えっ? 何言ってんのと一瞬仰け反ってしまったけど、どうやら土地も購入し建屋の段取りに入ったと聞かされた。いやいや唐突だなぁと思いつつ理由を聞くと、親父が21歳の時に商売を始めたので息子にも自分と同じように独立して貰いたいということだった。凄い発想だよなぁと心の奥底では思ってみたものの、どうせ何もやってないし、ましてや夢なんてものもないので親父のいう事をのんだ。

親父の幼少期

話しがそれてしまうが、一度親父の幼少期について触れておきたい。昭和13年生まれ。実は親父が何人兄弟なのか自分は知らない。また本家との付き合いは殆どなく、行事ごとに関しても記憶に残る限り数回ほどお邪魔した程度。親戚の顔ぶれも思い出すことはできない。恐らくばったりあってもお互い気が付かないだろう。なぜ親父が本家と距離を置いているのか? 一度お袋に聞いたことがあったけど、知らんでそんなん。非常に素っ気なかった。

そんな親父は戦中、戦後間もないころの話になると口が軽くなる。B29が爆弾を投下するなか近くの河川敷に逃げたこと。街中焼け野原になり路頭に迷ったこと。食べる物もなく学校にもいけないなど戦争でよくある苦労話だった。

それらの話しを聞いて思ったのが、食糧難から親父が口減らしにあったんではないかということ。戦後間もないころ小学生に入る年頃に大阪に住み込みで丁稚奉公に入ったという点で合点がいく。親父曰く小学校には通わしてくれるという条件をのんで出家したといっていたが。でも世の中そんなに甘くない。いざいってみると学問なんかいらないだろと朝から晩まで働かされたようで今でも根に持っている。なので自分が留学したいといったときは、理由も聞かず行かせてくれたんだろう。事実、自分の息子が生まれた時に親父からいわれたことがある。自分の息子が出来たら、親父がしたきたように何でもしてあげれるようなお父さんになれ。だった・・・。

居酒屋開店準備

当時の工事風景

親父が引いたレールにのってみたものの、料理は何年か前に経験しただけで興味はない。悪い癖とでもいうべきか完全に目的を見失っている中でメニューなんかロクに考えず、開店というイベントに興味を持ち内装は自分でやることにした。興味が沸いたことに関しては、動きが早い。友人、知人を呼んでわっしょいわっしょいと仕上げていった。

友人は、電気工から内装屋、左官屋など殆ど揃っていたので材料費のみ。工賃となる筈だった予算はみんなの飲み代として消えていった。当時はほとんどカラオケ屋で飲んで歌ってのバカ騒ぎ。そんな楽しい時間もあっといいうまに過ぎ去り、後はメニューだけとなった。今でこそネットで何でも検索できるけど当時はそんなものはなく手探り状態。悩んでもしかたないので知り合いの居酒屋で根掘り葉掘り聞いてみると面白い情報を得た。今でこそ業務スーパーは街中にあり一般客でも購入することが可能ですが、当時は一般的ではなく殆どが食材卸問屋が牛耳り飲食店用に販売していた。その中に業務用冷凍食品などがあり、それこそ大手居酒屋が扱っているメニューをそのまま出すことが出来る程の品数だった。調味料ひとつにしても、それ風の味が出せ、素人でもなんちゃって料理が出せる。ラーメンにしても麺屋から全て指導を受ける事ができ、肉系も友人が卸業をしていたので仕入れる条件として人気店のレシピなどを聞き出しメニューに取り入れていった。

何てことはなかったというのが強い印象だった。

居酒屋経営

多少のドタバタはあったものの無事店を開店させることができた。冷凍食品だったり出来合いの物だったけど料理に対して、お客さんも満足していただいているようで何度も足を運んでくれた。ほんと情報がない時代っていうのは余程の事がない限り失敗はしない。寧ろ下手な手作りよりは、安定した出来合いを出す方が好まれやすいと実感した。それでも他の店が扱ってないものも必要で、それなりに新商品なども開発し幾つかヒット商品も生まれました。

卵掛けラーメン
TKGのラーメン版。刻みのりとチャーシューをモリモリ入れて生卵と仕上げにラーメン醤油を掛ける。

チャーシュー丼
ホクホクのご飯の上にこれでもかと焼き豚、ネギをふりかけ、目玉焼きをのせラーメン醤油を掛ける。

うどんサラダ
うどんにレタスをもりもりのせ、マヨネーズに出汁をぶっかける。

今では何処にでもあるメニューでしょうが23年前のヒット商品。面白いように売れた王道の3品。

歯車が狂いだす

商売も軌道にのりだした頃、ジェットスキーやウェークボードを趣味にしている常連さんが居た。ある日、誘いをうけていってみると見事に嵌る。何時も誘ってくれるのは良いが、気を遣うのがいやで船舶免許を取りマイボートを手に入れた。ここまでは何てことない話ですが、問題は行く頻度。5月頃から11月まで毎日のようにいくようになってしまった。店が終われば飲みにくような事をして、そのまま海、海からあがると仕入れや仕込みをし睡眠不足が続く。

こんな事を繰り返していると思考回路が鈍くなるんですね。ある日、仕入れから戻る際、凄い渋滞にはまってしまった。珍しく渋滞だなぁと思っていると何やら前方で煙が上がっている。ったく火事かよって思って店の前に着くと自分の店が燃えてた。一瞬何が起こっているのかわからなかったが、あっ、てんぷら鍋に火を入れっぱなしだったことを思い出す。翌日、新聞にのるほどの見事な全焼だった。

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