ども親鶏(@pinoy_blood_15)です。

ようやく最終回にたどり着きました。

最初から読む場合は、こちらから。

2度目の来日からは、毎日のようにお店に通い、休みは一緒に過ごす。そんな楽しい日々もあっという間に過ぎていき彼女がフィリピンへ戻ることになった。それにしても皆勤賞を貰ってもおかしくないほど良く通ったもんだ。お店にいくと自分と同じような人が何人もいた。

彼女の帰国に合わせ、自分も後をおうようにフィリピンへ向かう。青い空、青い海、取りたてのココナッツを飲みながらビーチで過ごす日々。そんな淡い夢も初っ端から出鼻をくじかれた。未だに忘れられない空港での出来事。

当時のフィリピンは、体に入れ墨が入っていたり指がないものは入国できないようになっていた。それも何故か対象は日本人のみ。そのような方は結構な数でフィリピンに入国していたが、恐らく袖の下かなにかであったんだろう。そんな事を知らない人は、入国審査が終わって直ぐ別室につれていかれるルーティンがある。自分の見た目は普通だし、横暴な態度もとっていないのに何故だか呼ばれてしまった。そして、その場でパンツ一丁にさせられフィリピンに来た理由を説明しなければならない。その対応は横暴で本当に腹が立った。ったく当時の入管は、人権というのを完全に無視。今でこそ、そういうことは許されず廃止されましたが、当時は揉めるのもいやだったので日本の県警察から発給して貰った英文の無犯罪証明書を持ちあるくようになっていた。

とんだトラブルに巻き込まれるも何とか空港からでることができた。そこでまたもや衝撃を受ける。それはフェンス越しに待ち構える物凄い人だかり。海外へ出稼ぎに行っていたフィリピン人のお出迎えを家族総出で待ち構える姿。今ではもうみることは出来ない光景だろうけど圧巻の一言につきる。そんな人込みの中で彼女を何とかみつけだし無事再会したのだった。それはそれは心配そうな顔をしていた彼女だったけど、やつれはてた自分の姿も相当なものだったと思う。そして更なる衝撃。なんと彼女だけのお迎えと思っていたところ、背後に忍び寄る幾つもの人影。えっ、なにこの人たち。彼女曰く親戚だそうで5人ほどはいたんじゃなかろうか。ふと恩師が行っていた事を思い出す。それはお迎えに来た人たちをレストランでご馳走をふるまう行事。噂のお出迎え詐欺・・・いや、洗礼なのかと妙に感心した。

果たしてこんな状況で1ヶ月もフィリピンで過ごすことができるのか非常に不安に陥った。またアパートに着くも生活習慣の違いで驚きの連発。トイレにはウォーシュレットどころか便座自体がなくトイレットペーパーもない。どうやって処理すればいいのかわからず、彼女にも恥ずかしくて聞くに聞けない。これには相当悩まされた。対処方法がわかってから暫く彼女の手が気になったのは言うまででもない。またシャワーという高等なものはなく修行僧の如く行水を行う。あいにくフィリピン料理は、自分の口には合わなかったようで食にも悩まされた。ある程度の情報は仕入れていたにしろ、まさかそんなピン中(フィリピン中毒)の話しが本当だったとは思いもよらず日本に帰りたくなる。そして自分がフィリピンに住む事は決してないだろうと確信する。

来比の目的

彼女の国を知るという点では、もうお腹いっぱいになったが、もう一つフィリピンにきた理由があった。それは結婚。そもそもタレント業というのは、借金を背負って日本にやってくる。その返済は日本に行くたびに徴取され約6回で借金を完済するようなシステムらしい。この辺も含め、果たして途中で契約解除ができるのか?そして結婚は出来るのかということを確かめなければならなかった。もちろん彼女自身も借金があるので、その辺は不安そうだったけど、契約しているプロモーターへいってみることにした。そこには日本行きを待ちわびるタレントの卵が、ダンスやら歌などの練習する施設もあり、化粧を殆どしていない女の子たちをみて、あー、ほんと普通の子なんだと妙に関心した。

プロモーターとの交渉

恐る恐る事務所に入ると借用書などが入った封筒を片手に割腹がいいフィリピン人のオーナーが待ち構えていた。恐らく既に彼女から話は聞いていたのだろう。事務的に話が進み借金の説明を受け、これだけ払えばパスポートの返却及び契約は解除になるよと告げられる。30万円だったか50万円だったか忘れてしまったが、手持ちで間に合ったので、その場で支払った。その時、オーナーはグッドラックといってニヤリとしてたが、それが自分に対してなのか、彼女に対してなのかわからなかった。結婚した後に、それが自分に向けての言葉だとわかり、そういうことなのかと。フィリピーナとの結婚は、山あり谷あり。そら、お互い違う国、育った環境や考え方も違う。それらを乗り越えて初めて良さがわかる。

それにしても、このようなタレントの人生って悲しい世界だとつくづく思う。江戸時代の遊女の身請け(遊女の買取)じゃあるまいし、借金をしてまで海外に出稼ぎに行かなくてはならない状況を考えると日本(先進国)で生まれたというだけで超ラッキーなこと。いや、ほんとに。

結婚と帰国

大きな関門を突破し、晴れて結婚することになった。教会で盛大にしてあげたいところだけど、自分の身内は誰一人居ない。可哀想だったけど市役所で結婚式を挙げ、身内と彼女の友人を招き、ほんの申し訳ない程度のレセプションを開いた。なぜ、そんなに結婚を急ぐのか。それは査証。当時は若いフィリピン人が査証を取るのは容易ではなかった。最終手段として結婚し査証を得る最短コースで進めたかったからだ。結婚後はパスポートの再申請や結婚証明書を発行して貰うなど慌ただしく動き回り、自分が帰国するギリギリで何とか大使館への査証申請までたどりついた。後は発給待ちなので自分は一足先に日本に戻る。

両親への紹介

何時ものことだが両親には事後報告。この結婚という一大イベントも例外ではない。嫁の査証も無事発給され日本にやってきたので、そのまま両親に紹介することにした。流石に驚きをみせたが、親父が一言呟いた。これで、真面目になるかもな。とても深い言葉。ただ姉にはしこたま怒られた。唯一の救いは、フィリピン人に対する偏見が家族一同なかったこと。そして嫁は信用されている。今でも大事なことは、姉にしろ両親にしろ嫁としか話さない。

さて結婚生活をどう送るか。実はフィリピンに居る間にメインとなっていた収入源が失われていた。いつまでも続くとは思っていなかったけど、タイミングが悪すぎる。何とか新たな収入源を確保しなければならない。どうするか迷っていたところに親父がやってきて「一層のことフィリピンで住んだらどうだ」と告げられる。日本での収入もなくなったのに、フィリピンに行ってなにするの?しかもフィリピンで1ヶ月生活して分かったことは、自分にはあの国は無理。でも親父は真剣そのもの。だったら500万円やるから、それでやってみろと言われてしまった。最後の一手とでもいうのか。嫁は日本に住みたくはなかったようで、そのことについては最高に喜んでいた。

フィリピンへ再入国

滞在期間中は両親や姉との距離がグンと近くなったのではなかろうか。自分は蚊帳の外。さて逃避資金も手にしたことだし再度フィリピンへ。この時の心境は、あの国で本当に生活できるのか。500万円なくなれば日本に戻ってやる。かなり安易な考えだった。

フィリピンにたどり着き、まず最初にしたのが嫁の家族と距離を置くこと。2人だけで住めるようにとブラカンへ移り住んだ。そこで何か面白いことがあるのではないかと思ったが、そんなに甘くはなかった。当初は賃貸でもしようとおもってみたものの、地方の不動産は安く手が届く価格帯だったけど貸すのも安い。とても生活できるような収入源にはなりえなかった。余りにも田舎過ぎたのも悪かった。気が付けば、フィリピンに移り住んで、もう半年を過ぎようとしている。気持ちは焦るばかり。もうどうでも良くなり、ブラカンで家を一軒、土地と一区画買って、みるみるとお金が減っていく。そんなときに嫁が妊娠。これってタイミング悪くない?ともおもってみたものの出来たものは仕方がない。

親父が事故る

残金100万円を切ったころであろうか。姉から電話がかかってきた。あんた、お父さんが山奥で事故をして大変なのよと。慌てて日本に戻り親父の病院に駆けつけると、あの力強い親父の姿はなく、寝たきりの老人のよう。幸い命に別状はなかったけど腸に大きなダメージを受け人工肛門にしなければならなかった。そんな親父がフィリピンでの生活はどうだと聞くので、本当の事はいえず順調だよと安心させた。なんだかんだで2週間程滞在したのちにフィリピンに戻る。

その時は、いろいろな葛藤があった。あんな弱々しい親父をみるのは初めてで、ふとこのままでいいのか。今までさんざんな思いをさせ、いったい何時になったら親孝行ができるのか。これでいいのか子供が生まれるというのに。恐らく人生で初めて焦りを覚えた瞬間だったかもしれない。

天使との出会い

何やら近所のフィリピン人がやってきて、日本人が近くに来ているよと知らせに来た。フィリピン人のチスミス(噂話)は非常に速い。いや俺も確かに日本人だけど、ただそれだけで大騒ぎすることでもない。相手も迷惑だろうし。なんてことはない、そのフィリピン人は、その日本人にも同じような事を伝えていたようで、お互いあうことになってしまった。話を聞くと奥さんはフィリピン人。お盆休みで、こちらに来ているとのことだった。その晩、一緒に酒を飲んでいると、自分が悩んでいるのを察したのか職質がはじまった。そうか、なんなら俺の家に住み込みで働けばいいよといってくれる。なんて引きが強いんだ。早速お盆明けとともに、その人と一緒に日本に戻る。仕事はなんと穴掘り。一日中穴を掘るいわゆる土方業。ブラカンで知り合った方は、ヘルメット姿が良く似合う現役バリバリの親方だったのだ。

親方は物凄い勢いで仕事もするけど、もの凄い勢いで遊ぶ豪快な人。パチンコが大好きで仕事が終わると毎日のように連れていかされた。それだけならまだしも、夜の方も大好きでパチンコの後はフィリピンパブに誘われる。こんな生活がつづけば貯金どころかフィリピンに仕送りもできない。このまま、ここに居たら何の意味もない。子供も来月生まれるし、親方の元を離れフィリピンに戻ることにした。約5ヶ月のあいだ住み込みで働きフィリピンへの仕送りは一度もしていない。チケットを買うと残金20万円。どうすんのこれ。フィリピンにあとどれくらいお金あったっけ?

息子の誕生

子供用品を買いそろえるも、当時でもなかなかのお値段。考えても仕方ないが、お金の心配が付きまとう。後は病院。公立だと1,500ペソで出産できるそうだ。とりあえず何とかなりそうなので安心した。そしてやってきました。お昼過ぎだっただろうか嫁が産気づく。慌ててブラカンからケソンシティーにある病院へ。流石、公立病院というだけあってけが人や病人でごった返していた。看護婦や先生も慣れたもので、つぎつぎと患者を捌いていく。嫁はというと初産ということもあり、もがき苦しみ気が付けば夜になっていた。今はわからないけど公立病院というのは夜になると1人しか院内にはいれない。言葉も喋れない自分では役立たないので嫁の姉が付き添う事に。生まれてくる赤ちゃんを直ぐに抱く事ができないという情けない話。結局、朝方に生まれたのだけど自分は病院の外にあるベンチに寝転がり星を眺めていた。人生生まれて初めての野宿。それもフィリピンで。息子が生まれるというのに自分は何をしているんだろう。昔なら実家に帰ればなんとかなるという甘い考えがあったけど、もう自分も子供を持つ身。事故を起こし衰退した親父の姿が目に浮かび、もうこれ以上頼るのは、やめようと心に誓った。

あの夜は、星に手に届くんじゃないかと思うほど輝いていた。ケソンシティーという場所であんなに綺麗な夜空をみれるんなんて。そして、この星の下で自分と同じような状況に立たされている人が何人くらいいるんだろうか。そんな事をずんやり考えていた。

最後に

この病院で過ごした夜の出来事は、自分を変えるよいきっかけだったと思う。その後は、家族を養えるようになるまでは両親とも連絡を絶ち、目途がたったのが息子が5歳になったころ。どんな人間でも強い意志があれば生まれかわれる。そんな経験を経て今に至ります。今年で16年目を迎えるフィリピン生活。ほんとに嫁、子供、両親や姉たちに助けられ今に至ります。感謝してもしきれない。

おわり

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