ども親鶏(@pinoy_blood_15)です。

フィリピンの歴史はスペイン植民地時代(1565年~1898年)、アメリカ植民地時代(1898年~1946年)、日本軍占領時代(1942年~1945年)に大別される。そこで今日はウィキぺディアに記載されている独立運動について纏めたものを紹介させていただきます。フィリピンの歴史を知ることで更に理解を深めることができれば幸いです。

フィリピンに到達した初のスペイン人は1521年のマゼラン率いるスペイン船団である。マゼランはフィリピンにたどりつくと、鎧と槍、火縄銃、大砲などの武器の威力を背景に部族長たちに対してスペイン王への服属および朝貢とキリスト教に改宗したセブ王への服従ならびにキリスト教への改宗を要求。部族長を次々と服従させていった。しかしイスラムの部族長ラプラプはこれを拒絶した。マゼランは激怒し、1521年4月27日、ラプラプ討伐のためマクタン島へ軍を派遣した。ラプラプ軍は甲冑で身を固めたスペイン兵の足が無防備なことを見抜くなど、巧みな戦術によってマゼラン軍を破り、ついにマゼラン本人を殺害した。リーダーを失ったマゼランの配下たちは退却していった。

1529年にポルトガル王ジョアン3世と神聖ローマ皇帝カール5世の間でサラゴサにて締結された、スペイン帝国とポルトガル海上帝国の間の平和条約。スペインはフィリピンの領有をサラゴサ条約をもってポルトガルに認めさせた。

1543年ルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いるスペイン船団がサマール島とレイテ島に到着、この島々にフェリペ皇太子(フェリペ2世)にちなんでフィリピンの国名の由来ともなるラス・イスラス・フェリピナス諸島と命名する。

1565年スペイン植民地が始まる。ミゲル・ロペス・デ・レガスピ遠征隊がメキシコからセブ島に到着し占領、植民基地を作った。セブ島はヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)副王領の一部となる。レガスピはこの帰路にフィリピンからメキシコに向かう航路を発見し(当時は帆船なので来た航路をそのまま引き返すことができなかった)、メキシコとフィリピンの間でガレオン貿易を始めた。ただしポルトガルやフィリピン原住民に最初の拠点セブを追われ、本格的な支配を開始できたのはフアン・デ・サルセードらによる1570年のマニラ征服と1571年のマニラ市の設置からだった。

征服されたフィリピン原住民は植民地時代の初期にはエンコミエンダ制(植民地住民支配のための制度)の下でスペイン人の征服者によって分配され、分配された徴税権や労働徴発権と引き換えにスペイン人はフィリピン原住民に対してカトリックの布教を行うことを義務付けられたが、エンコミエンダ制は原住民組織への打撃が大きかったため、17世紀前半に廃止された。

広大なスペイン帝国の中で、フィリピン総督領はメキシコ市を首府とするヌエバ・エスパーニャ副王領の一部となり、ヌエバ・エスパーニャ副王の下で総督を頭とする行政組織が体系化され、州(アルカルデ)、町(プエブロ)、村(バランガイ)が行政区画として再編され、総督の権力を監視するためにアウディエンシア(司法・行政・立法を司った王室機関)が置かれた。

スペインは当初、トルデシリャス条約(東側はポルトガル領、西側はスペイン領として両国で世界を分捕りましょう、という両国以外の事情は一切考慮していない、かなり乱暴な条約)に抵触せずに香料を産出する地を求めてフィリピンを征服したが、フィリピンでは期待された香料は発見されなかったため、交易中継地として扱われることになった。1573年には初めて中国産品がメキシコにまで運ばれ、ガレオン貿易が始まり季節風を利用して年に一隻のガレオン船がマニラからアカプルコまで太平洋を横断したガレオン貿易により、アカプルコから山を超えたカリブ海岸のベラクルスを中継してヨーロッパにまでアジアの産物が送られた。さらに、マニラからは1581年と1582年に南米ペルー副王領のカヤオにまでガレオン船が送られたが、ペルーとマニラの貿易は1631年に禁止された。

ガレオン貿易の進展に伴って中国人や日本人が移住し、また、黒人がヌエバ・エスパーニャから連行され、マニラ城外に居住区を築いた。特に中国人はガレオン貿易とフィリピン植民地経営に当たって決定的に重要な役割を果たした。1637年には中国人の人口は約2万人に達し、17世紀から18世紀にかけてフィリピン総督による弾圧もあったものの、中国人は現地人女性と通婚してメスティーソ(混血)と呼ばれる社会階層を築きあげ、フィリピン社会に同化した。18世紀半ばの三度に及ぶ中国人追放令発令後、中国系メスティーソは地方の商業に進出したが、19世紀のマニラ開港後は総督府の中国人移民奨励の影響もあって新規に移民した中国人商人が在来の中国系メスティーソに代わった。

スペイン人はフィリピン植民地化の過程で、フィリピン諸島全土を植民地化できた訳ではなかった。特に南部のホロ島やミンダナオ島のムスリムはスペイン人に対して頑強に抵抗し、300年以上に渡ってモロ戦争と呼ばれるスペインとイスラム勢力との間の抗争が続けられた。ホロに都を置いたスールー王国は19世紀に入るとスペイン当局やマカオのポルトガル商人、シンガポールとの交易で栄え、1840年代にはアメリカ、イギリス、フランスと通商条約を結んだ。スペインはスールー王国に対し、1848年から断続的に攻撃をしかけ、1876年のホロ攻略後、1878年に講和を結び、以後はミンダナオ島の攻略に取り掛かった。スペインは1880年代にはミンダナオ島のブアヤン王国との戦争を激化させたが、植民地時代の終焉までスペインがミンダナオ島を完全に支配することはできなかった。

民族運動の展開

貿易の自由化に伴うアメリカ合衆国やイギリスとの貿易の拡大は、18世紀以来の高等教育の拡充と合わせて19世紀には自由主義思想がフィリピン原住民の間にも流入した。19世紀末になると、フィリピンにおける有産階級が成長したことや、世界各地を結ぶ航路が整備されたことなどを背景として、フィリピンからスペインへ留学する層が形成されることになった。こうした経験を通じてフィリピンにおけるナショナリズム形成の重要性を感じた留学生、知識人は、徐々に本国政府への改革要求を強め、民族運動を展開していった。

運動は当初フィリピン人の神父によって担われたが、1872年1月に勃発したカビテ暴動をきっかけに、総督によって進歩的なフィリピン人の神父や知識人が弾圧されたことは、スペイン当局のフィリピン・ナショナリズムへの弾圧を強化する事態を招いた。続いて1882年にはマルセロ・デル・ピラールによってタガログ語の日刊紙『タガログ毎日』が創刊され、フィリピン本土とスペインに留学したフィリピン人留学生によってプロパガンダ運動と呼ばれるナショナリズム運動が開始された。とりわけ、ホセ・リサールがスペインで発表した『ノリ・メ・タンヘレ』(我に触るな)は植民地支配下のフィリピンにおける諸問題を厳しく告発するものであり、民族運動に影響を与えた。1888年にはバルセロナでフィリピン人によって結社「団結」が結成された。1892年にはホセ・リサールがフィリピンに帰国して「ラ・リガ・フィリピナ(フィリピン民族同盟)」を結成するが、結成間もなくスペインに対する反逆罪で逮捕されるなど弾圧も強化されていった。

秘密結社カティプナン(KKK)結成

カティプナンはホセ・リサールによって作られたラ・リガ・フィリピナ(フィリピン連盟)の主要メンバーたちの逮捕後に、その一員でもあったアンドレス・ボニファシオによって創設された。「ラ・リガ・フィリピナ」は知識階級が中心で非暴力改革を志向したが、スペイン官憲の徹底的な弾圧を受けた。ボニファシオはこのようなやり方では改革は達成できないと考え、武力闘争路線のもとでカビテ州、バタンガス州、ブラカン州、ヌエバ・エシハ州などのタガログ諸州にまで支部を拡大し、1896年にカティプナンによるフィリピン独立闘争(フィリピン独立革命)を開始した。

フィリピン独立革命

スペイン官憲はこれを機にホセ・リサールを逮捕、銃殺。リサール自身は武力闘争を志向したことはなかったが、カティプナンのメンバーたちから独立運動の思想的指導者として敬愛されていた。スペインの意図に反して、リサールの死は独立運動を活発化させることになった。カティプネロスと呼ばれたメンバーたちは「ホセ・リサール万歳!」と叫んで戦いに身を投じた。

独立闘争の中でやがてカティプナンは二つのグループに分裂し、対立していく。1つはボニファシオに近いアルバレス将軍率いるマグディワン派であり、もう1つはエミリオ・アギナルド将軍の兄弟バルトロメオ率いるマグダロ派である。この状態を解決すべく開かれたテヘロス会議においてボニファシオはカティプナンにおける主導権を喪失する。マグダロ派のメンバーが学問のないボニファシオの指導力に疑問を呈したときに、ボニファシオは会議を放棄、議決の無効を宣言したためである。その後、ボニファシオはカティプナンの指導権を掌握したアギナルド将軍の指示で逮捕され、1897年5月10日に粛清された。

1897年のビアクナバト協定においてアギナルド将軍はスペイン政府と休戦協定を結び、他のメンバーと共に香港へ去った。その後、和平協定は長持ちせず、フィリピンは再び騒乱状態に陥った。アギナルドは米西戦争の勃発を受けてフィリピンへ戻った。アギナルドはアメリカ合衆国がフィリピン独立運動を支持してくれると信じており、1898年6月12日にマニラでフィリピンの独立を宣言。アギナルドたちの夢はすぐに打ち壊された、アメリカ合衆国が領土欲しさの本心をあらわにしたパリ講和会議でフィリピン代表団が出席を拒否されたのである。そこでアギナルドはフィリピンがスペインからアメリカ合衆国へ2000万ドルで割譲されたことを知った。

怒ったアギナルドらはすぐさまアメリカに対する独立闘争(米比戦争)を開始するが、抵抗空しくイサベラ州パラナンでアギナルドが捕らえられ、全カティプナンメンバーへの闘争の停止と降伏の呼びかけを行わされた。アギナルドの呼びかけにメンバーたちは次々に降伏していった。マカリオ・サカイなど数少ないメンバーだけが地下へ潜伏して抵抗を続けたが、カティプナンの歴史はここに終わった。

米比戦争敗北後

米比戦争敗北後、1901年4月にマッカーサーから釈放されたアギナルドは郷里のカウィトに帰還し、元革命軍兵士の生活支援をしつつ、農業と年金受給中心とした長い引退生活に入った。日露戦争最中の1905年7月29日に特使として訪日していたアメリカ合衆国のウィリアム・タフト陸軍長官は大日本帝国の桂太郎内閣総理大臣と「桂・タフト協定」を結び、日英同盟を背景にフィリピンに於けるアメリカ合衆国の優先権と朝鮮に於ける大日本帝国の優先権が相互に承認され、フィリピンに於けるアメリカ帝国主義と朝鮮に於ける日本帝国主義が日米両国によって保障された。

1935年9月17日に実施されたフィリピン・コモンウェルスの大統領選挙には、本命のマニュエル・ケソン、及びかつてフィリピン独立教会を創設したグレゴリオ・アグリパイと共に、フィリピン共和国初代大統領、エミリオ・アギナルドも立候補したが、ケソンの697,000票に対し、アギナルドは179,000票、アグリパイは148,000票の得票となり、国政復帰は成らなかった。

第二次世界大戦によって1941年にアメリカの保護領であったフィリピン・コモンウェルスに日本軍が進撃してくると、アギナルドは日本との協力を選んでフィリピンに帰国したアルテミオ・リカルテ将軍の帰国を自宅で祝福し、かつて自分を捕えたアーサー・マッカーサー2世の息子、ダグラス・マッカーサーがコレヒドール島に立て篭もっていることに対して、フィリピン人の独立を求める立場から、マッカーサーの友として降伏を求める書簡を送っている。また、バターン半島の戦いの際にはラジオを通してマッカーサーに対してフィリピン兵の無実の若者の命を助けるために降伏するように求める演説までも行った。

1943年10月14日にホセ・ラウレル大統領の下でフィリピン第二共和国が独立を宣言した際には、アギナルドもリカルテと共に独立記念式典に参加したが、アギナルドはリカルテとは異なり、それ以上の対日協力を行わなかった。しかしながら、アメリカ軍のフィリピン反攻戦後、再びアメリカ合衆国がコモンウェルス政府と共にフィリピンに戻ると、アギナルドは対日協力者であるとして逮捕され、パラワン島のイワヒグ収容所に収容されたが、第二次世界大戦終結後の1946年、マニュエル・ロハス大統領によって恩赦が与えられ釈放された。1946年7月4日にフィリピン第三共和国が独立を達成した際には、アギナルドは独立記念式典にてフィリピンの国旗を高々と掲げるに至った。

年表

1892年7月 ホセ・リサール(穏健派)がフィリピン民族同盟結成
1892年7月 ボニファシオ(武闘派)がカティプナン結成
1892年7月 ホセ・リサール(穏健派)逮捕
1896年6月 エミリオ・アギナルド(穏健派)、カティプナン参加
1896年8月 武装蜂起 カティプナンによるフィリピン革命(1896革命)
1896年12月 ホセ・リサール処刑
1897年5月 エミリオ・アギナルドによりボニファシオ処刑
1898年6月12日 スペインからのフィリピン独立を宣言(1898革命)
1899年2月 米比戦争勃発
1901年3月 エミリオ・アギナルド逮捕
1901年4月 エミリオ・アギナルド釈放
1902年7月 公式に米比戦争終結宣言
1942年1月 日本軍によりるフィリピン占領
1945年9月 日本降伏
1946年7月 アメリカからのフィリピン独立

フィリピン独立関連動画

EL PRESIDENTE

米西戦争前に始まった対スペインの独立戦争から米比戦争までをエミリオ・アギナルドの視点で描いた映画。

言語はタガログ語だが英語のテロップがあるため、このブログを一通り読んで頂ければストーリーが更に理解できるのではないかと思う。個人的には是非みてもらいたい作品。

HENERAL LUNA

アメリカからのフィリピン独立を目指してアギナルド大統領の下で戦ったアントニオ・ルナ将軍を描いた映画。

ルナ将軍はあくまで独立を目指してアメリカと戦うべしと主張するなか革命政府上層部はアメリカの統治を受け入れるか、あくまで独立を目指すかで対立。アギナルド大統領は基本的に独立を目指す立場だが、和平派にも理解を示し、強硬派のルナ将軍と対立。最後はルナ将軍はアメリカ占領を受け入れる将兵に殺害されるがアギナルド大統領よる暗殺ではないかとの噂がある。

おまけ

カビテ州アラパン

フィリピン国旗がつくられた街。フィリピンの国旗は4つの色からなる。白は平等と友愛を、青は平和、真実と正義を、赤は勇気と愛国心を象徴し、黄色い太陽は自由を意味している。3つの星は主な島であるルソン島・ミンダナオ島・ヴィサヤ諸島を象徴している。太陽から伸びる8本の光条は、フィリピン独立革命の際、最初に武器を取ったルソン島所在の8州(パンパンガ州、ブラカン州、リサール州、カビテ州、バタンガス州、ラグナ州、タルラック州、ケソン州)を表している。

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